中学生の頃(もう40年近く前になるのか)、美術部だった。
静物画や風景画が好きで、しかも古くなったものや汚れたもを描くのが好きだった。
傷や汚れが、そのモノが歩んできた歴史というか、人生というか、を物語っている気がした。
別の言い方をすると、傷や汚れが、そのモノが生きている感じ、そのモノの魂を表しているように感じていた。
全てのモノに神がやどるとか、古いモノは妖怪になるとか、日本らしい考えの流れなのかもしれない。
およそ100年前、カメラが普及していくことで、ピカソは抽象画を描くようになったとも言われている。写実的な表現、光学的なリアルさはカメラにかなわない。
目で見えるリアルさよりも、心で感じるものを描く。抽象化したものを描く。
これなら、カメラを越えられる。
絵は止まっているが、ヒトや動物は生きていて、動いている。
そのため、生き生きとした感じを、止まっている状態で出すのが難しい。
マンガの絵は、生き生きとしている感じがする。
やや極端に表情付けされていたり、ありえない姿勢だったりして、これは抽象画の一種だろう。
コロナ禍の中、コロにゃんの絵を描いてみた。
あえてリアルなネコを描くのではなく、フィクション多めで描いてみた。
後ろ足も尻尾も描いてないし、人差し指を空に向けている。はっきり言ってこれじゃ、ネコじゃない。
ネコを描くのではなく、のんびりするのも悪くないという感じを描こうとしている。
ネコじゃなくていいのだ。
元々静物画や風景画を描くのが好きで、ヒトや動物は苦手だ。
ましてや、マンガのような絵は描けない。ポンチョの絵を描くほうが楽しかった。
戦国 新型コロにゃんでは、ネコが足軽のような鎧を着ている。
ますますネコじゃないが、ネコよりもモノを描きたかったので、鎧を着せたのだ。
しかし、ネコが無表情になってしまったので、犬とアマビエを描いた(アマビエの耳を描き忘れている)。
この時、犬やアマビエに表情を付ける事に挑戦した。困難だったが、終わってみればこの作業が楽しかった。
その後、しばらく漫画風のネコを色々描いていた。
その中の1つが、手紙を描くネコだ。
描いているうちに、だんだん楽しくなってきた。
そうして、酔っ払ったネコや、ミュー変異株や、台風の備えを描いた。
ネコ、犬、アマビエを中心に描いているが、やっぱりモノを描きたいので、それぞれの絵に少しだけモノが入っている。
50の手習い的にネコの絵を描いた。
最初は思い通りの線がなかなか描けなかった。でも描いているうちに、40年前の感覚が戻ってきて、少しずつ描けるようになってきた。
(まだまだ充分ではないけど)
「いくつになってもヒトは成長する。」って言うけど、まさしくそう感じる。
楽しい気分でやっている時は、特にそうだ。
マイナスの感情、「追い詰められればできる」とか「敵がいれば頑張れる」とか「恨みのエネルギー」とかは、おそらく危機的状況からの脱出等、一時的な瞬発力にはなるだろう。
しかし、長期的な成長には楽しさが必要だ。
いつかはコロナ禍も終わる。
危機的状況を乗り越えたら、マイナスな感情は捨て去って、楽しさを追求(=成長)しよう。
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