2021年8月9日月曜日

大きな金メダル

TOKYO 2020。振り返ってみれば、新しい競技が増えて、TV鑑賞するのには楽しいイベントだった。
日本の夏は、南国セブの夏よりも暑い。観客を入れていたら、熱中症が問題となっていただろう。
何年もかけて熱中症対策はしていたが、その効果は未知数だった。

経済的効果を期待されていたイベントだったけど、「無観客」と決定した時点で、その効果は期待できなくなった。
それでも行った意味は、ローマ帝国の「パンとサーカス」のサーカスの部分だろう。
コロナ禍で、疲弊した世界。パン(経済効果)は無いが、世界に向けてサーカスは提供できた。

世界中の人が、地元アスリートを自宅のTVから応援し、競技に一喜一憂して、巣ごもり生活の苦難をしばしの間忘れることができた。
東京の負担は大きかったが、冷静に考えて、このイベントが開催できる都市が他にあっただろうか?
もちろん東京だけの努力ではなく、世界中のアスリートの協力もあってこその世界規模イベントだ。

開催前、ニュースで『子供から「運動会はやらないのに、オリンピックはやるの?」と質問され、答えに困った。」という意見が見られた。
世界中の人を集めつつ、無観客で開催し、さらにTV発信して世界の巣ごもり生活者へ提供する。その経済的負担を全部受け入れる。
運動会にそれを期待している?
普通に考えて、運動会とオリンピックは規模が別物と強く感じるし、無観客で運動会をやるのか?それでいいのか?それが楽しいのか?それがしたいのか?
問題をごちゃごちゃにしているように感じる。悪意すら感じる。

また、「開催は、間違ったメッセージとして国民に伝わるかもしれないが、政府はどのように考えているのか?」という意見もあった。
多くの国民は直接政府の発表を受けない。ニュースや新聞といったマスメディアを通して受け取る。
政府は指針や決定事項を示すだけで、「伝える」のはマスメディアであり、間違ったメッセージとして伝わらないようにする責任はマスメディアにもある。全責任があるとまでは言わないが、全く関係ないというような質問。
その質問が間違ったメッセージになってはしまわないか?

思い起こせば、本当に様々な問題があった。困難、試練の連続だったと言っていい。
なにはともあれ、TOKYO 2020 OLYMPIC は閉会した。

東京の負担で、世界へサーカスを提供した。
自己犠牲の精神は、キリスト教その他多くの宗教で「尊いもの」として扱われる。
商業的には大失敗だが、東京全体が「徳」を積んだ。

世界のためのこの努力は、いつの日か大きな金メダルとなって東京に返ってくるだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿